※本記事は2017年に執筆し2018年に月刊珠算情報誌「サンライズ」に連載された記事を再編集して掲載しています。
今年の5月、ハンガリー人が雲州そろばんへ見学に行く、というテレビ番組を見ました。以前よりそろばん産地に見学に行きたいと思っていたものの、なかなか行動に移せずにいた中、ハンガリー人とTVクルーに先を越されたことになんとも言えない悔しさを感じ、すぐさまそろばん産地への旅の計画を立て始めました。
自己紹介が遅れてしまいましたが、私は現在、東京でそろばんの先生&選手をしています。私の母はホンモノのそろばんの音を私に聴かせるために、私が生まれる28日前の全日本珠算選手権大会に出場し、妊婦の状態で読上算競技に入賞しました。父はフラッシュ暗算の開発者で、日本一や十段選手を多く輩出しています。また、全日本をはじめとした各競技大会で読み手をしていたこともあり、読上算が得意な教室でした。(この文章を書いた直後に私も全国大会で読み手をするようになります。)
うちに限らず、読上算に力を入れているそろばん塾はそろばんへの拘りが半端ではありません。玉を動かした時に他の玉が動いてしまうようなそろばんは安い・悪い・壊れている・競技用ではない「文房具そろばん」です。
逆に、全ての玉の重さが均一で浮き玉がなく、何のストレスもなく全力で弾けるそろばんが良い「競技用そろばん」です。野球選手が安物のバットを使っていないのと同じで、我々珠算の競技人は道具の性能にも拘ります。
私が今使っているそろばんは、波多野珠算専修館の波多野文夫先生からおよそ30年前に頂いたソロマット・永雲作・梅玉・紫檀枠・23桁ワンタッチの雲州そろばんです。(波多野先生をご存じない方は是非覚えてください。史上最強のそろばんの先生のお一人です。)
このそろばんは、私が生まれる前に頂いたもので父から使用許可が下りたのは20歳の時。およそ四半世紀、全国大会で活躍できる時がくるまで大切に保存されていました。また、父のこだわりで塾の先輩後輩たちも良質なそろばんを使ってきたのでそろばんの実力がつくと共にそろばんへの目(指?)も養われていきました。結果、私はそろばんを見て触れば、材質や値段、産地、現在の保存状態がわかるように育っていきました。
そのため、自分の生徒に競技用のそろばんを買ってもらう前は自分が一度弾き、納得がいかなかった場合は返品し、交換してもらうか職人さんへの調整をお願いしています。
そんなそろばんに対して一家言を持つ私が、一度もそろばん製作の現場を見たことがなく、日本のそろばんの世界とは何の関わりもないハンガリー人とTVクルーが雲州にいる、ということに居ても立っても居られなくなっていました。そこで、昔からお世話になっている朝日プリント社へお願いし、雲州・播州のそろばん職人へ連絡を取ってもらったのですが、全ての方から見学を断られてしまいました。理由は、職人は主に農家なので今忙しい・テレビ取材が多くて見学自体ウンザリしている・工房ではなく自宅で暇な時に作業しているので来られても見せるところがなくて困る、などでした。
テレビ局は取材に来ると時間も守らないし、謝礼は支払わないし、横柄な態度だし、撮影時間は超長いのに放映時間は数分だし、名前や言ったことが間違ってるし・・・・で嫌な気持ちになるのは、うちの教室でも散々やられたのでわかるんですが・・・
仕方がないので、私の持つ最も強力な武器の一つ、父の名を借りたサラブレッド七光りパワーでもう一度連絡を試みます。その結果、播州そろばんの市橋義則さんと雲州そろばんの瑞雲さんから見学の許可が下りました。本当はもっと会ってみたい職人さんはいましたが、あっちにもこっちにもと見学に行くのは失礼になるだろうと思い、二産地一人ずつ見学させて頂くことになりました。
職人に気後れしないくらいの知識を身につけよう!
ある時まで日本には、雲州・播州・広島・芸州・京都・大阪・東京・博多・名古屋・大津・堺 といったそろばん産地が存在していました。しかし、これらの産地は雲州・播州の2つを残して絶えてしまいます。その二産地でも現在、高齢化・後継者不足・材料の木材不足により競技用そろばんはほぼ買えなくなってしまっています。悔しくてたまりません。
そんな思いを胸に、今回の旅は始まります。
7/5(木):授業後、夜行バスで三宮へ、
7/6(金):早朝、三宮着→小野市・市橋義則さんの工房見学→宝塚・今井珠算塾見学・宿泊
7/7(土):姫路・朝日プリント社→松江で宿泊
7/8(日):奥出雲・玉算堂社→瑞雲さん→そろばんと工芸の館→出雲市で宿泊
7/9(月):出雲大社観光→帰宅
という旅程です。授業をなるべく休みにしたくなかったのですが、奥出雲から東京まで帰るには終電が14時になってしまうため、ゆっくりとした旅程になりました。
旅立つ前に、そろばんについての勉強を始めました。大学の卒業論文を書くのに使った珠算辞典を家から引っ張り出し、波多野文夫先生・池田つね子先生から頂いた資料を読み込みます。インターネットでそろばん関係の動画を探し、録画してあったそろばん関係のテレビ番組も見返しました。また、東京の谷賢治先生・埼玉の池田つね子先生の教室にお邪魔し、その知識とコレクションを披露して頂きました。(お二人に教えて頂いたお話は後日、まとめて報告させていただきます。)※画像は博物館状態の池田珠算塾・教室の一画
そろばんの作り方がわかってきたところで、この辺りから自分でそろばんを作るにはどうしたらいいのか、に研究テーマがシフトしていきました。そろばんの寸法を測ってデータを取り、家にあったそろばん製作前のパーツ毎にまとめられた展示物から見えない部分の寸法や角度を分析します。現在使われている木材以外にもっと良い材質はないのか、比重や強度・滑らかさ・価格を木材図鑑や読んだり木材問屋に問い合わせをして当たりをつけ、自分ならどこで仕入れたら良いのか方法を学びます。どうやったら素人の自分でも加工ができるのかを考え3Dプリンターや全自動削り機・・・の設計図を作るCADというソフト群を弄ってみたあたりでこの追求をやめました。既に相当の知識は身につきました。いざ旅立たん。
あっちもこっちもそろばん職人
7月の初め、授業終わりの夜行バスで兵庫・三宮まで旅立ちました。人生初の夜行バス。
この時期、自身も生徒も出場する全日本珠算選手権大会前だったので数ヶ月間休み無しで授業をしつつ、自分の練習もしつつ、その他の仕事もしつつ、で体調管理ができておらず体調を崩していました。出発の3日前からお腹がキリキリと痛み、授業中1時間に2回はトイレに駆け込む状況。夜行バスは広めの3列シートでしたが、なんとも居心地が悪く8時間で一睡もできませんでした。
そんな憔悴しきった状態でバスを降車し、兵庫の先生に聞いておいたオススメのサウナ銭湯に行ってみますが、どうにも体調が優れずサウナの滞在時間2分でギブアップ。播州(小野市)へと向かいます。
お土産等で荷物は多くフラフラの状態の関東人にラッシュタイムの関西人は一切優しくありません。そもそもこの文章を書きながら、姫路と宝塚は大阪府?と調べるくらいには関西音痴なので、乗る電車もイマイチわかりません。「邪魔や!」「フラフラしてんな!」などの言葉を何回言われたかわかりませんが、こちらも必死の無気力状態。急いで退くこともできません。余裕がないから写真もない。
フラつきながら何と読むのかわからない粟生線に乗り、小野市駅へと到着します。小野市は、今でもそろばんの大会をしているそうですが、昔行っていたという全国大会の話を聞く限り、駅前にそろばんのオブジェがあるくらいのそろばんの街です!という感じを期待していたのですがそんな気配はゼロ。タクシーに乗って「そろばんの街なんですよね?」と聞いたものの、「知らん。」と言われてしまいます。聞いていた話と全然違う・・・。
職人、市橋義則さんのお宅は「となりのトトロ」でメイがヤギに「とうもころし」を食べられそうになるシーンに出てくるような、田舎だけど塀や生け垣に囲まれたそこそこ狭い道の住宅地、のような場所にありました。
表札はどの家もなく近所の人に、「市橋さんのお宅はどこですか?」と聞くものの「どの市橋さん?」と返されます。「そろばん職人の・・・」と返しても「どのそろばん職人の市橋さん?」と返されます。後からわかったことですが、市橋さんの弟さんでそろばん職人の市橋源太郎さんが今回お邪魔する市橋さん宅の裏に、同じくそろばん職人で家系的には繋がりのない他の市橋さんが家の向かいに、道路2本向こうには私の叔母が全国大会優勝時に使っていたそろばんを作られた職人、宮本一廣さんの工房があり、職人たちは相当密集しているようでした。この辺ではそろばん職人という情報はまるで意味をもたないくらいのそろばんタウンだと気付き、テンションが上がります。
市橋さんのお宅は綺麗に手入れされた松を中心に枯山水の庭園があり、玄関には巨大な花梨の衝立(90kg)とそろばんの枠材である黒檀の置物が飾られている築90年の立派な日本家屋でした。個人のお宅で築90年・戦前の建物というのは、空襲と地価高騰であらゆる建物が入れ替わってしまった東京では見たことがありません。なんだか吸い込まれそうな歴史力を感じます。
市橋さんはその昔、そろばん職人がたくさんいた時代に名古屋の小金そろばん社にご自身のそろばんの質の高さを認められます。小金そろばん社はそれまで卸の契約を結んでいた職人たちとの取引を一切無くし、質の高い市橋さんとの独占契約を結びました。その結果、市橋さんは取引を打ち切られた職人たちから嫌がらせを受け、材料を仕入れられないように買い占めの妨害を受けます。それでも、会社から支援を受けたりご自身で海外まで材料の買い付けに行ったりしながら良いものを作り続けてきた結果、今でも工房が生き残ってきたということでした。
この話を聞く前は、そろばんの先生や連盟が職人を守る努力をしなかったから職人たちは減っていったのだと思っていましたが、多くのそろばん職人たちはお互いの足を引っ張り合い、協力の道を取れなかったために潰れてしまったようです。
こだわりを持ち続けて(正統な)努力をしていれば、気付いてくれる人・応援してくれる人が現れて大成していく。人の足を引っ張る人は消えていく。どの世界も同じですね。
工房はそろばんを作るために特注された機械や大工道
具でいっぱい。現在は体調を崩されているので、実際に作っているところは見られませんでしたが、雰囲気たっぷりで一人で篭って大会の練習をしたくなるよう
な空間でした。その後、市橋さんが作られたそろばんを見せてもらうことに。1.5万円~5万円のそろばんがズラリ。1.5万円と言えど、玉の色・ツヤ・木目の細かさが素晴らしく、近年では5万円クラスでもお目にかかれない玉だと感じました。(新品ですが)一通り弾かせてもらい、市橋さんご夫妻の前で両親に電話をかけ、許可をもらい「全部ください。」と言ってきました。そろばん職人の系譜がどんどん絶えていく中、このような特上の競技そろばんは、
今後一生手に入らないかもしれません。実は最初から「全部ください。」というつもりで来ていました。(後日届いた100万円を超える請求額を見て、父は苦笑したり怒ったり喜んだりしていました。)
最後に、「そろばん亭」というお店で昼食をご馳走になり、お土産にそろばん最中を頂きました。まさに、そろばん尽くし。
帰り道、近所にあるという宮本一廣さんの工房に突撃でお邪魔しました。目と鼻の先に、自分の先輩たちが使っていた・日本一も取ったそろばんを作った職人がいる、挨拶だけでもしたい、と思っての突撃です。結果、挨拶だけでなく白檀製のそろばん製作をしているところを見せてもらいお弟子さんの高山さんと合わせてお二人の名刺まで頂きました。突然の訪問だったにも関わらず、お話まで伺うことができ、とても貴重な時間を過ごすことができました。
結局、市橋さんと奥様には昼食・お土産だけでなく、市橋さんの工房~宮本一廣さんの工房~帰路の駅まで車で送って頂き、最後の最後までお世話になりっぱなしでした。この場を借りてお礼申し上げます。本当にありがとうございました。 続く
この翌年(2018年)にもご挨拶に伺ったのですが、さらに翌年、市橋義則さんはお亡くなりになられました。
ご冥福をお祈り致します。本当にありがとうございました。
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